文武館跡のケヤキ(昭和初期)
文武館跡のケヤキ群は、大子陣屋時代から大子郷校文武館開設当時、既にその敷地内に大樹の偉容を誇っていたと思われます。大子陣屋は、享和2年(1802)、水戸藩11郡制の実施に伴い大子組郡奉行治所として郡奉行が任命され、翌3年設置されました。「陣屋 街の上にあり。高き事三丈餘。此村郷士益子民部左衛門兼智なる者あり。其先對馬和泉などいへる者豪富にして、居住なしたる地なり。少く隍壘の形あり。圍の内を御殿地といふ。先年、水戸威公、義公の旅館ありし故に御殿の名あり。民部左衛門兼智、享和三年、是地を奉りて、水戸殿郡奉行治所となる。大子組是なり。」(『水府志料』)。これによると、大子陣屋の地は、水戸藩初代藩主威公(徳川頼房)以来御殿地といわれ、隍壘(こうるい)(空堀で囲った館)の形を成していたことが知られています。この地を郷士益子民部左衛門が水戸藩に寄付し、藩が陣屋を設置したということになります。
ケヤキ群3株は、おそらく近世初期水戸藩草創期には既に巨木であったのかも知れません。この付近一帯は、陣屋時代は馬場として、また文武館開館後は弓矢や鉄砲など武術の習練場として使用されていたと考えられます。そして、郷校廃止後、現在に至るまで学校や役場など文教行政施設の要所にあって、その象徴的意味を成しています。
地図を見る:文武館跡のケヤキ
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