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鏡城址

画像:鏡城址(遠景) 

画像:鏡城址(雷神社) 鏡城址は、久慈川から東へ約900m、標高221mを測る鏡山の頂にあります。城跡は、山頂を切り崩して平坦にした部分で約2、000m2、南側は急勾配、北側は斜面地で3段に切り崩し、その段差が土塁の働きを成し、南西側は自然の岩石を利用して城壁としています。全体に自然の地形を利用した中世前期の典型的な山城の形態を成しています。遺構としては、土塁跡が確認されています。
鏡城について『水府志料』は、「古墟 鏡の城といふ。往古萩〈藤〉原富得今近津主殿の先祖築といふ。其孫下野守尊憲なる者、天文の頃、佐竹義重に属して奥州白河関入道と戦ふ。白川の兵来り襲ひ、尊憲利を失ひ退き、城廃すといへり近津明神縁起に在」と記しています。
また、『新編常陸国誌』には、次のようにあります。
久慈郡池田村ニアリ、鏡城卜称ス、伝ヘテ藤原富得ノ築ク所卜云フ、其子孫世々此ニ拠リ、近津神社ノ神職トナル、富得十三世ノ孫ヲ伊賀守康重卜云フ、其養子義広職ヲ襲グ、義広十八世ノ孫大宮司尊憲、佐竹義篤〔一二義重〕ニ属シ、天文十六年、白河城主関義近卜戦ヒ、利ヲ失ヒ、尊憲父子及ビ一族二十余人戦死ス、城陥ル、義近深谷伊豆ヲ置テ之ヲ守ル、已ニシテ義篤兵ヲ率テ来攻ム、伊豆退テ黒沢獅〈子〉城ニ拠ル、義篤進撃〈シ〉テ伊豆ヲ斬リ、悉ク保内ノ地ヲ取リ滑川六郎ヲシテ城ヲ守ラシムト〔古蹟考〕、一説ニ六郎名ハ重範卜云ヘリ、佐竹家中文書目録ニ天文五年三月十四日、義篤ヨリ依上池田ノ内外ノ内、滑川兵庫助アリ、或八重範卜同人カ〔水戸領地理志〕
これらのことから、鏡城は年次は不明ですが、往古、藤原富得により築城され、中世戦国期には佐竹氏領となり、白河結城氏一族と戦い落城、城跡は白河結城氏領となったが、また佐竹氏が攻め取ったことが分かります。しかし、その後の事情は不明です。中世戦国期の大子地方は、佐竹氏と白河結城氏の争奪の地といわれ、当地方には鏡城と同じ経緯をたどった山城が数多くあります。
現在、城跡には雷神社が祀られているほか、松、桜などの樹木が植えられ小公園の形態を保っています。

  • 区分:大子町指定文化財
  • 種別:史跡
  • 所在地:池田1069-1ほか
  • 指定年月日:昭和50年9月12日

史跡

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