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頃藤城跡

画像:頃藤城跡 

画像:頃藤城跡(遠景)

 大きく蛇行する久慈川に北、東、南側を囲まれ、西方の山麓から舌状に突出した台地上にあります。この西側の尾根筋に、南北に堀切りをして郭を築いていました。現在、石祠が立っている平担地が本丸で、一段下がって二の丸、三の丸があったと思われます。本丸跡の北、南側は急崖となって久慈川がせまり、西側に空堀、土塁跡が残っています。
 『新編常陸国誌』には、「太田郷鑑云、本丸千四百四十坪〔字御城〕二丸九百六十坪〔学中城〕三丸千六百八十坪〔字外城〕、古老伝言フ、小川大和守、上小川下小川ヲ領知ス、今ノ西金比藤ハ古一村ニテ、上小川村ト云ヘリ」と、その規模を伝えています。
 『水府志料』には、「古墟、館坪といふに在。土人の伝説に、何れの頃にや山田右近大夫道定といふ者居といへり。其後、佐竹義胤四男小川大和守義継住せし由。佐竹羽州に移る後、城廃すといへり」とあり、『新編常陸国誌』には、「久慈郡比藤村ニアリ、佐竹義胤第四男小川宗義〔宗義一ニ義継ニ作ル、大和守ト云〕此ニ邑シ奕世城主タリ。慶長七年、佐竹氏封ヲ秋田ニ遷ス、城廃セリ」と記されています。
 『依上保内郷土史』によると、建治年間(1275~1278)に佐竹義胤の子小川五郎宗義(義継、大和守)が城代となり、その後、美和村(現:常陸大宮市)の小田野城代の小田野義村、義正父子の勢力下に入ったといわれています。『佐竹知行目録』には、永正12年(1515)、義舜が小田野刑部少輔に対して「小川いやしき」を充行っています。小田野氏は、山入師義の子自義が小田野城に居住して始まり、その後、袋田氏から養子義継を迎えています。この義継の孫が義村です。小川氏については、大永5年(1525)2月の大沢根渡神社の棟札に「大旦那小河弾正左衛門種義」とあり、天文18年(1549)12月の同神社の棟札に「大旦那小川民部少将義長」と記されています。頃藤城は、佐竹氏の秋田国替えによって廃城となり、小川刑部右衛門らが秋田へ下向しています。
 山入氏義墓について『新編常陸国誌』には、「久慈郡頃藤村長福寺ニアリ、伝称ス、氏義佐竹義舜ニ破ラレテ戦死ス、即コゝニ葬ルト云」「小田野某ハ氏義ガ一族ナレドモ 忽心ヲ変ジテ氏義ヲ切、首ヲ持テ義舜ニ降ルトアレバ、頃藤ニ葬ルノ説イカガアラン、考ベシ」と記されています。
 頃藤にある島崎安定の墓について『新編常陸国誌』には、「久慈郡頃藤村ノ農家ノ宅中ニアリ、石ノ小祠ヲ建タリ、安定或ハ安重ニ作ル、左衛門尉ト称ス、世々行方郡島崎城ニ居ル、一郡ノ巨族ナリ.天正十九年二月、佐竹義宣南地ノ諸部ヲ誘致スルノ時、安定及男徳一丸共ニ其列ニ預カル、義宣ノ族臣小川大和守ハ、安定ノ岳父ナリ〔小川氏ハ比藤ノ城主ナリ、比藤旧名ハ上小川ト云〕コゝヲ以テ義宣大和守ヲシテ事ヲ謀ラシム、大和守島崎氏ヲ預カリテ.居館ニ帰リ長臣清水信濃ニ命ジテ コレヲ討シム、信濃島崎ヲ饗スト誑ハリ、己ガ家ニ招ク、安定門内ニ入ルニ及デ 信濃鉄砲ヲ以テコレヲ討卜云、信濃共怨恨アランコトヲ恐レ、石ノ小祠ヲ立テコレヲ祭ル」と記されています。『水府志料』にも、「島崎殿祠」が「其霊祟りをなすによりて、祠を建祭りたるとて、中城坪信濃屋敷といへるにあり」と記されています。『六地蔵寺過去帳』にも、島崎安定が「天正十九年辛卯於上ノ小河横死」、徳一丸も「於上ノ小川生害」と記されています。
 現在も、堀切、横石、外ノ内、横道、舘、下城、下城河原、脇沢、上戸、寄居平、太郎御城の小字名が残ってい

 

  • 区分:遺跡(周知の埋蔵文化財)
  • 種別:城館跡
  • 所在地:頃藤字館6419ほか
  • 時代:中世

地図を見る:頃藤城跡

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